第1話「僕がうつになった理由」


僕がうつの診断を受けたのは29歳の時でした。

24歳で京都の大学を卒業し(いろいろあって留年と休学を含め6年かけて心理学部を卒業)、

その後、臨床心理士の資格をとるべく大学院を目指しました。

大学院を目指すといっても、

成績も、知識も、財力も実現するには程遠く、

親からの支援も期待できない状況

これらを満たすために、

アルバイトで生計を立てながら勉強し、

学費を貯めようと努力しました。


アルバイトとはいっても

休みは2週間に一日だけ、

一日10時間の正社員なみの労働をして、

残りの時間を勉強に当てました。

 

けれど実際には

 

アルバイトだけでヘトヘトになり、

休みの日は、ずっと寝ていたいくらい疲れているのに、

重たい体にムチ打って机に向かいました。


そうした生活を何とかこなすことが精一杯で、

大学院へ進める目処は

まったく立たない状況でした。


そんなある日、

 

姉から突然の連絡がありました。


父が余命3ヶ月の末期癌であるということでした。

 

うちは僕が10歳のときに親が離婚していて、

父と最後に会ったのは大学入学したばかりのころ、

実に6年ぶりの連絡が

末期がんで余命3ヶ月の知らせだったのです。


十数年生活を共にしてなかったとはいえ、

実の父のこと、

父との最後の時間を過ごすべく、

なけなしの金で

 

故郷の島根に毎月お見舞いに帰りました。


アルバイトという立場では、

休めば、休むほど給料が減ります。


もはや生活費と島根に帰る交通費を工面するだけで精一杯で、

 

大学院の学費を貯めるなんて

 

まったく無理でした。


一方で、

 

抗がん剤の治療で会うたびに衰弱していく父を見ては落ち込み、

アルバイトでエネルギーを使い果たし、

大学院入試の勉強をする気力など

 

微塵も残っていませんでした。


それでも頭の中では、

「できないのはがんばりが足りないからだ」

「もっとがんばればできる」 と

気持ちだけが空回りして、

何もできていない焦りに

どんどん追い詰められていきました。

幸か不幸か、余命3ヶ月の宣告も、

父は1年半、生きながらえました。


ずっと離れて暮らしていた父との時間を

 

最後に埋めなおすことができた。

それはとても嬉しいことでした。


けれど一方で、夢の実現は


ますます遠のいていく絶望感で

 

どんどん落ち込んでいった時間でもあったのです。


父が息を引き取った時、

一種の安堵感さえ覚えました。


ほどなくして、

それまでの疲れからか、

バイト中、目の前が真っ白になり、

意識が朦朧として倒れかけ、

病院に運ばれました。


検査を受け

脳に異常は無いこと、

 


父の看病から心身共に疲弊し、

抑うつ状態が長期にわたっていたことから、

医師からうつの診断がくだされました。


夢や理想を追い求め、

無理をしてがんばり続けた結果、

心身共に疲れ果ててしまったのです。


 

⇒第2話目 「僕がどのようにして断薬したか」